心がふたつに分かれている時代
2011/10/16
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心がふたつに分かれている時代
2011年10月16日 14時13分35秒
テーマ:意識・生命
あなたのできることをしなさい
あなたの持っているものを使って
あなたの今いるところで
これは、うちの近所の学習塾の表に貼ってある言葉。
この言葉の貼ってあるちょうどのところで信号待ちになり、
車の窓からじっと考えさせられてきた言葉。
あなたのできること …何だろう
あなたの持っているもの …何だろう
あなたの今いるところ …どんな社会的な位置に自分はいるのだろう
ずっと考えて毎日を過ごしているけれど、なかなかこれが難しい。
これが、よく表現されている
“いま、ここ、自分”ということなんだろう。

いま ここ じぶん
その合計がじぶんの一生 う~む( ・(ェ)・)
話題変わりますが…
ところで、先週から昨夜にかけて、NHKテレビで松下幸之助氏がモデルとして描かれた“神様の女房”という番組が放送されていた。ジェームス三木氏の脚本だったが、日本人の気質が本当に美しく描写されていた。
そして、なぜいま、日本企業が一斉にカタカナ(あるいは英語)で名のられるようになったのか、多くの日本人にあらためて気づきが促されたのではないかと思ったりしながら見ていた。
絶妙に描かれていたことは、夫婦、家族の結束が大きな車輪になっていくということ。
世界中から向けられている日本人に対する視線は、
日本人は打たれ強いとか、底力が大きいとか、規律・道徳を重んじるとか…
色々あるけれども、
全ては「株式」と「戦争」、そして「法」というものの傘の下では、
力が発揮できないようになっている。夫婦のあり方も然り。
あらためて、『変な表現』になるが、よくつくられたもんだ、と思わずにいられない。
いまの世界の模様が本当に腑に落ちていくドラマだった。
皮肉にも、昨日10月15日は、世界各地でデモが行われた日だったのも、
偶然ではなく、人類の集合意識の成せるワザなのかもしれない・と思ったものだ。
言葉に表現すると小さくなってしまうから言葉にしてはならない気がする。
あまりにも日本の先人は尊い。
巷では、ますます二極化が激しくなった。
私がいつも拝読している武田教授の先月の記事を思いだした。
ここに転載させていただきます。
(転載はじめ)
心が二つに分かれている時代
武田教授のブログより
http://takedanet.com/2011/09/post_fe0f.html
今、太平洋の魚介類がどのぐらい汚れているのか、コツコツとやっていますが、北海道から愛知県まで太平洋側の魚介類、藻類でやや小型のものはかなり汚染されています。ところで・・・
3月12日を堺に、それまであれほど1年1ミリシーベルトを守れといっていた専門家が一斉に「被曝は大したことはない」と言い出したこと、それに衝撃を受けたのは私だけでは無いでしょう。
また、科学者である私にとって見れば、実験結果、観測結果などの事実は、それまでの自分の考えをすべて捨て去らなければならないほど重要なことです。だから、2007年の柏崎刈羽原発の事故と、2011年の東通、福島第一、それに東海第二の事故、さらには福島第一3号機の爆発映像を見て、「原子力発電所は安全だ」などという科学者はいないはずです。
それなのに、まだ日本原子力学会も、大学の原子力関係の研究者も、そして国の原子力関係者も、事故の前と同じような考えで研究をしています。
なぜなのだろうか? 先回、「もしかしたら、日本人はなにも考えていないのではないか、自分の意見というのは無いのか?」ともおもいました。でも、日本人には他の民族にないすばらしい性質を持っていることも事実です。
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日銀で活躍していたある友人が今から15年ほど前に私に次のような話をしてくれました。
「1980年代に日本の銀行もサラ金のような個人向け・無担保の業務に乗り出そうかと検討したが、最終的には銀行のやることではないということでやらなかった。でもその後の状態を見ると日本ではサラ金が大成功した。
そのもっとも大きな理由は日本人は「借りたものを返す」という世界でも珍しい民族だったからだ」
つまり、多くの国では短期間にお金が足りないから借りるという場合、借りたお金を返さないのですが、日本人は必ず返すという特別な人たちだというのです。
同じような話を同じ時期に聞いたことを思い出します。ある総合商社で長い間、資金回収を担当し、重役にまでなった人でしたが、この人は、
「不思議なことに、海外のお金を回収するときに、相手の事務所が日本人の経営ならまず間違いなく資金は回収できた。でも不思議なことに、相手の事務所の経営者が外国人でも事務所に日本人が一人でもいれば回収は容易だった。本当に不思議だ」
と言っておられました。
私はこの二つのことを聞き、江戸時代のことを書いた本を思い出したのです。借金をした人が証文に、「もし金子(きんす)を返さない場合はお笑いになっても結構です」と書いているのです。
「笑われる」ということは日本では「死ぬより辛い」と考えられていたと解説されていました。
「恥を知る」というのが日本の文化の根源にあるのですが、それは遠くアフリカからユーラシア大陸を横断し、ついに太平洋を望む最後の土地にたどり着いた私たち日本人のルーツなのかも知れません。
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そんなまじめな日本人、正直で誠実な日本人がなぜ、3月12日にころっと変わったり、科学者が事実を見ても原発を進めようとしたりしているのでしょうか? 福島原発事故で苦しんでいる多くの人は、実はこの矛盾を克服できないのではないかと思います。
そういえば奇妙なことがあります。リサイクル運動以来、私は「環境研究家、環境運動家」と言われる方とのつきあいがあったのですが、日本が放射性物質でこれほど汚れているのにあまり動きが無いのです。特にセシウムはかなり測定されているものの、骨にたまって白血病になる可能性があるストロンチウムや、肺に入って肺がんを引き起こすとされるプルトニウムがほとんど測定されていないのに、あまり関心がないように見えます。
環境研究家に怒られるかも知れませんが、彼らは「日本の環境」が心配だったのではなく、「環境の仕事」を失いたくなかっただけではないかとも思います。それは原子力科学者もそうで、彼らも「原子力」に興味があったのではなく、「原子力の仕事」を失いたくないので毎日、頑張っていたのではないか?と疑いたくなります。
事故が起こったことは大変、不幸なことでしたが、悲惨な墜落事故を乗り越えて現代の安全な航空機があるように、科学的に見れば原子力利用のための大きな進歩をもたらす原因にもなるわけで、多くの課題が提供されてもいるのです。
自分が言っていること、自分が書きたいことは、自分の魂の叫びなのか、それとも単にお金が欲しいからいっているのか?・・・これについて20世紀の初頭、マックス・ウェーバーという社会学者は冷たく言い放っています。
「学問が生活の糧を得るためだけの職業としての学問になって久しい」
(平成23年9月19日)
武田邦彦
(転載おわり)
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多くの人間が最も恐ろしいと感じることは「死」です。
それと同じ意味が、「職業を失くすこと」であることには違いありません。
「職業を失くした」とき、家族がいかに結束するかによって、
その後の一家全員の人生が決まるわけですが、
いまの日本社会では、ある意味「女房」が機能していません。
苦境になると離婚する・・・これが当たり前になっているところが、家庭の中の欧米化に通じるところだと思います。GHQが潰したかったところは、大和魂と大和ごころだったわけです。
ある意味それが成功して、現在に至っている…。
無一文から築きあげることをした人は強い。
しかし、その影には必ず良き女房の存在がある。
「無から築きあげようとする男に惚れる」
そんな女性が少なくなった(…というより見当たらなくなった)のが今の社会。
これが、第二次世界大戦がまだ終わっていないという意味に通じている気がしてなりません。